大原一三
大原 一三 おおはら いちぞう | |
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生年月日 | 1924年7月1日 |
出生地 | 宮崎県東臼杵郡北方村(現延岡市) |
没年月日 | 2005年11月3日(81歳没) |
死没地 | 東京都港区 |
出身校 | 東京大学法学部政治学科 |
所属政党 |
(無所属→) (新自由クラブ→) (無所属→) 自由民主党 |
称号 |
従三位 勲一等瑞宝章 法学士(東京大学) |
公式サイト | 大原財政経済研究所 ホームページ |
第23代農林水産大臣 | |
内閣 | 第1次橋本内閣 |
在任期間 | 1996年1月11日 - 1996年11月7日 |
選挙区 |
(宮崎1区→) 比例九州ブロック |
当選回数 | 7回 |
在任期間 |
1976年12月9日 - 1979年9月7日 1980年6月22日 - 1983年11月28日 1986年7月6日 - 2003年10月10日 |
大原 一三(おおはら いちぞう、1924年7月1日 - 2005年11月3日)は、日本の政治家、大蔵官僚。衆議院議員(7期)、農林水産大臣(第23代)を務めた。位階は従三位、勲等は勲一等。
来歴・人物
[編集]宮崎県東臼杵郡北方村(後の北方町、現延岡市)出身。に生まれる。北方小学校、宮崎県立延岡商業学校(現宮崎県立延岡商業高等学校)、旧制台北高等学校、旧制第一高等学校を経て、1951年、東京大学法学部政治学科卒業[1]。東大法学部政治学科4年次に国家公務員六級職試験(行政職、法律職)を合格[2]。大蔵省に入省。主税局に配属[2]。
1957年6月、御坊税務署長。1958年6月、沼津税務署長。1961年8月、東京国税局総務部総務課長。1963年6月、主計局給与課長補佐。1966年8月、主税局総務課長補佐。1967年8月、日本専売公社企画部企画課長。1969年8月、日本専売公社管理調整本部総務課長、大臣官房付、人事院事務局給与局給与第二課長。1970年7月、大臣官房参事官。同年12月、退官。
1976年、衆院選に無所属で出馬し初当選。当選後は新自由クラブに所属したが、1979年に離党。その年の衆院選に無所属で出馬するが落選。翌1980年の衆院選では、自由民主党公認で出馬し、返り咲きを果たした。1983年に2回目の落選をするも1986年に再び返り咲く。
1996年、第1次橋本内閣で農林水産大臣を務める。担当大臣として、住専国会を乗り切る。同年の衆院選は比例九州ブロックにまわり、再選。1997年春の叙勲で勲一等瑞宝章受章[3]。1998年7月に誕生した小渕政権では総理の政策ブレーンとして活躍する。同年、衆議院国鉄・林野特別委員会委員長として、JRなど改革の取りまとめに貢献する。2001年、長年所属していた橋本派を離脱、無派閥となる。2003年10月、議員を引退。その後は政治評論、政策提言を行い、大原財政経済研究所を主宰。国内外において行財政に関わる講演や執筆活動などをする。原子力発電ではないクリーンなエネルギーの推進を唱え全国小水力利用推進協議会の会長も務めた。
2005年11月3日午後5時21分、膵臓癌のため東京都港区の病院で死去、81歳。死没日をもって従三位に叙される[4]。
2009年の第45回衆議院議員総選挙では息子の大原守人が宮崎2区から無所属で立候補したが、落選した[5]。
主な政策提言と実施状況
[編集]著書
[編集]- キンメル『租税と企業』(中央経済社、1953年)
- 『前進への条件』(経済往来社、1967年)
- 『落日の日本』(エール出版社、1973年)
- 『これからの日本を救う道』(エール出版社、1975年)
- 『明日では遅すぎる―日本が甦える日』(文藝春秋、1996年)
- 『「パンとサーカス」の時代―非常識が常識の国』(フォレスト出版,1998年)
- 『日本経済再生の条件』(経済親和会,1998年)
- 『日本再生の条件―政策展開と今後の課題』(東洋経済新報社,1999年)
- 『さあ!明日を語ろう―あなたが変える日本経済』(フォレスト出版,2000年)樋口廣太郎との対談
- 『日本の没落』(角川書店、2001年)
- 『改革者―私の「代表的日本人」』(フォレスト出版,2001年;角川文庫、2002年)
- 『日本人の忘れもの』(時事通信社,2003年)
- 『官庁大改造』(扶桑社,2004年)
- 『2050年の日本―再生か衰退か』(東洋経済新報社,2004年)
- 『人間万事塞翁が馬』(自伝)(宮日文化情報センター、2005年)
脚注
[編集]議会 | ||
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先代 亀井静香 |
衆議院農林水産委員長 1991年 |
次代 高村正彦 |
公職 | ||
先代 野呂田芳成 |
農林水産大臣 1996年 |
次代 藤本孝雄 |