奥田幹生
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奥田 幹生 おくだ みきお | |
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生年月日 | 1928年3月21日 |
出生地 | 京都府綾部市 |
没年月日 | 2018年3月2日(89歳没) |
死没地 | 京都府京都市 |
出身校 |
京都師範学校 早稲田大学政治経済学部 |
前職 | 読売新聞記者 |
所属政党 | 自由民主党(加藤派) |
称号 |
勲一等瑞宝章 従三位 |
第122代 文部大臣 | |
内閣 | 第1次橋本内閣 |
在任期間 | 1996年1月11日 - 1996年11月7日 |
選挙区 |
(旧京都1区→) 京都2区 |
当選回数 | 6回 |
在任期間 | 1980年6月23日 - 2000年6月2日 |
奥田 幹生(おくだ みきお、1928年3月21日 - 2018年3月2日)は、日本の政治家。京都市会議長・衆議院議員(6期)・文部大臣などの要職を歴任。従三位。
来歴・人物
[編集]京都府綾部市出身。京都師範学校を卒業後、教員生活を経て早稲田大学政治経済学部を卒業。早大卒業後、読売新聞記者となる[1]。その後京都市会議員・同市会議長・京都府議会議員を経て、1979年の第35回衆議院議員総選挙に自由民主党公認で旧京都1区から立候補し、落選した。翌1980年の第36回衆議院議員総選挙では(現職の田中伊三次が公認を返上したため)唯一の自民党公認候補として選挙戦を戦い、初当選した(当選同期に古賀誠・平沼赳夫・川崎二郎・柿澤弘治など)。当選後は宏池会に所属。
1996年に発足した第1次橋本内閣では文部大臣を務めた。同年の第41回衆議院議員総選挙では京都2区から立候補し、日本共産党の井上哲士と後の民主党代表・前原誠司を破り再選(次点の井上との差は849票、前原は比例復活した)。2000年の第42回衆議院議員総選挙には立候補せず、政界から引退した。
政界引退後は平安神宮の管理保存のための市民組織、平安講社の総長などを務めた。
2018年3月2日、老衰のため、京都市内の病院で死去[3]。89歳没。死没日をもって従三位に叙された[4]。
脚注
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議会 | ||
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先代 原田昇左右 |
衆議院環境委員長 1993年 - 1994年 |
次代 持永和見 |
先代 浦野烋興 |
衆議院商工委員長 1991年 |
次代 武藤山治 |
公職 | ||
先代 島村宣伸 |
文部大臣 第145代:1996年 |
次代 小杉隆 |